大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪地方裁判所 昭和61年(わ)2579号 決定

主文

本件公判手続を停止する。

理由

被告人は、生来性のろう者で、大声で話しても聞こえず、その聴力の程度は九〇デシベル以上とみられる。その上、ろう教育を全く受けておらず、その理解し表現することのできる文字は、わずかに被告人自身の氏名、「日」及び算用数字のみであり、被告人との意思交信の手段は、これらの文字と絵図の利用及びごくわずかな手話表現を交えた身振り表現しかなく、その言語活動の水準は、およそ四歳程度とみられている。そのため、通訳の可能な事項の範囲も著しく限られ、かつ、それが正確になされたかどうかを確認する手段も存しない。したがって、訴訟に関し、公判廷において、被告人に公訴事実(自動車運転による重過失傷害、無免許運転及び酒酔い運転)や黙秘権の内容、あるいは、証拠調べ、その他各訴訟行為の内容を伝達することはもとより、被告人の意思を表明させることも極めて困難な状態にあるといわなければならない。

以上のような被告人は、まず、刑訴法一七五条にいう「国語に通じない者」に当たり(ろうあ者については、別に同法一七六条に規定があるが、同条は国語に通ずる者であることを前提としているものと考えられる。)、その供述を求める場合はもちろん、起訴状の朗読、黙秘権の告知等の各訴訟行為について、その内容を被告人に伝達するため、通訳人に通訳をさせなければならないと解すべきところ、前記のような次第で、被告人に対しては、現状では、有効な通訳の方法が見当たらないため、公判手続を適法に進めることができないというほかない。

更に、訴訟手続を進めるためには、被告人がいわゆる訴訟能力を備えていることが必要であり、訴訟能力とは、訴訟行為をなすに当たり、その行為の意義を理解し、自己の権利を守る能力をいうものと解すべきところ(最高裁判所昭和二九年七月三〇日決定参照)、そのような能力が機能するためには、まず、自ら直接又は通訳人を介して、訴訟の状況、すなわち、各訴訟行為の内容を認識するとともに自己の意思を表明する能力を備えていることが当然の前提となるから、被告人のように意思交信能力が極端に低く、かつ、これを補足する手段のない者に対して、このまま訴訟手続を進めるならば、手続の公正を確保できないことになるといわざるをえない。

結局、本件被告人に対しては、これを訴訟能力を欠く者に準じて扱うのが相当であると考え、刑訴法三一四条一項本文を準用して主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 青木暢茂 裁判官 林正彦 河田充規)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例